腸内細菌と人体の不思議な関係3

欧米で注目される便移植

急速に進む腸内細菌の研究は病気の治療など臨床にも応用され始めている。

クロストリジウム・ディフィシル感染症というのは、あまりなじみのない病名だが、米国の感染症対策の中心、疾病対策センター(CDC)の大がかりな調査によると、米国での推定発症者は約45万人、年間約2万9000人がこの病気で死亡しているという。多くは医療施設での感染で、抗生物質での治療のさい、この菌だけが生き残って問題を引き起こすことがわかった。

この菌はもともと腸内にいてそれほど悪さをしない日和見菌だが、感染症治療のために抗生物質を使いすぎると腸内のほとんどの細菌が死滅し、この菌だけが生き残って腸に炎症を起こし、下痢を引き起こすことがわかった。免疫機能の低下した人や高齢者は重症化しやくすく、治療が難しいという。

この難病にオランダ・アムステルダム大のニードロップ医師が挑んだ。クロストリジウム・ディフィシル症患者の腸内細菌叢は抗生物質の多用で焼け野原のような荒れた状態になっている。ここに健康な人の腸内細菌を移せば、元通りになるのではないかと考えた。

ニードロップ医師はその方法として、健康な人から便の提供を受け、患者の大腸に、便に含まれる微生物の腸内細菌を移植することを思いついた。2013年1月、米国の著名な医学誌ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシンに臨床試験の成果が報告された。健康な人の便の移植を受けた患者16人中15人は短期間に症状が改善し、抗生物質を使った治療よりもはるかに成績が良かったという。「便移植」の成果を報じたこの論文は世界的なセンセーションを巻き起こし、腸の難病に便移植を治療法として試みようとする病院が続出した。

カナダのマクマスター大では潰瘍性大腸炎という腸の難病の患者に便移植を試みた。潰瘍性大腸炎はクローン病とともに、厚生労働省から炎症性腸疾患(IBD)として難病に指定されている。2013年末の数字では、日本国内の潰瘍性大腸炎の患者は約16万6000人、クローン病は4万人にのぼる。

便移植で腸内細菌の種類も豊富に

15年春のカナダ・マクマスター大グループの発表では、75人に二重盲検と呼ばれる厳密な方法で臨床試験したところ、便移植を受けた患者は偽薬(プラセボ)の提供を受けた患者に比べて回復の度合いが大きく、便移植の効果がはっきりしたと判断された。健康なボランティアから便の提供を受けたが、回復した9人中7人は同じ人から移植を受けていた。さらに、腸内細菌の種類を比較したところ、移植を受けた人の方が偽薬の人に比べ、細菌の種類が豊富なこともわかった。

日本でも臨床試験がスタート

海外での成果を受けて日本でも慶応義塾大病院と順天堂病院で便移植の臨床試験が始まっている。

14年から始めた慶応病院では再発性クロストリジウム・ディフィシル感染症、難治性潰瘍性大腸炎、過敏性腸症候群などの腸の難病患者が対象になっている。

実際の便移植はどんな形で行われるのだろうか。慶応病院では肝炎など感染症や寄生虫の検査をパスした健康なドナーに大便を提供してもらい、便と生理食塩水を混ぜてフィルターで濾過し、その液を内視鏡を使って患者の大腸に送り込んでいるという。海外での成果が多く報じられ、新たな治療法に期待が高まるが、患者やドナーの選定、移植の手順など実際の治療には難しい問題が多い。どの施設もまだ手探りで進めている段階のようだ。

腸内細菌はがんの発症にも関係しているという研究もある。がん研究会の大谷直子主任研究員らのグループは肥満に伴う腸内細菌の変化が肝がんの発症に関係していることを突き止め、2013年6月、ネーチャーに発表した。肥満になると肝がんをはじめ、さまざまながんの発症率が高くなることはすでに知られていたが、マウスを使った動物実験で、肥満になると特定の種類の腸内細菌が増加し、この細菌が作り出す物質の影響で、細胞が老化を起こし、その結果、周囲の細胞のがん化を促進する作用を及ぼすことがわかったという。この研究は肝がんの発症リスクを知り、予防にもつながる成果として注目されている。

気分やうつ病にも関係?

最近、研究者が注目しているのは脳と腸との関係だ。腸の状態が精神状態に影響しているという見方は古くからあったが、腸内細菌が精神状態に影響を及ぼしていることを示す研究が相次いでいる。

こちらも日本発の注目される研究成果が出ている。約10年前、九州大学心療内科の須藤信行教授は「腸内細菌は神経系の発達や機能にも深く関与している」と考え、無菌のマウスを使ったストレス実験で、マウスを狭いチューブに閉じ込めてストレスを与えると普通のマウスより多くのストレスホルモンが出るが、ビフィズス菌の一種をあらかじめ与えておくと正常なホルモン量が維持されることを発見し、腸内細菌がストレスに影響することを世界で初めて実証した。

一方、マクマスター大の研究グループは無菌のマウスの腸に、他のマウスから採った腸内細菌を移植すると、性格も受け継ぐというびっくりするような研究結果を発表している。臆病なマウスが大胆になり、大胆だったマウスが臆病になったという。オランダ・ライデン大のグループはある種の微生物を含んだ食物を食べることで、悲しい気分を軽くしてくれる可能性があると国際的な専門誌に発表している。フィンランドでは生後6ヶ月までに乳酸菌を補充すると13歳の時点で、広い意味で自閉症のひとつの形とされるアスペルガー症候群の発症率が低下するという研究報告が小児科分野の国際誌に出されている。

日本でも国立精神・神経医療研究センターが15年9月、多発性硬化症という神経難病の患者の腸内細菌のデータ解析から患者の腸内細菌叢が健康な人の分布とは大きく異なっている、と発表した。グループは多発性硬化症患者が国内では過去30年間で10倍以上に増えていることから、患者数増加の背景には日本人の食生活の変化など環境要因が深く関係しているのではないかと考え、患者の腸内細菌の研究に着手したという。

腸内細菌をめぐるこうした研究成果は世界各地から矢継ぎ早に報告されている。病気の治療や予防への期待が高まるが、ほとんどの実験はまだマウスを使った動物実験の段階だ。さまざまな報告も散発的なもので、腸内細菌と脳や神経との関係が確実につかめたというにはまだ少し早いようだ。